2006/11/14
わからない
ここしばらく考えてなんだかだんだんわからなくなってきました
以下、明るい話題ではないので伏せます
「いじめ」と認めるとか認めないとか、言葉の表現の違いひとつのことなんじゃないのかと思う
「暴行」「恐喝」は「いじめ」じゃなくて犯罪なんじゃないのかな
「いじめ」という言葉で分類してレッテルを貼るのは何か違う気がするし危険な傾向に感じる
「いじめ」と呼ばれるものが犯罪の要素を帯びてきた時は警察という専門家に任せるべきなんじゃないかな・・・とも感じる
もしも自分の子どもに何かあった場合、「どうして教えてくれなかったのか?連絡してくれなかったのか?」は感じると思うけれど、多分、それと一緒に「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」という気持ちも感じると思う
(子どもが「いじめ」のどちらの側であっても)
学校を責める大人の姿の中に自分が先ず気づくことができなかった後悔や苦しみ、恐怖を見ようとしてしまうのはわたしだけだろうか
「いじめ」という言葉にものすごく振り回されている気がする
死を選んだ人は本当に辛くて辛くて「もうどうしようもない」と自分の中で考えながらその瞬間を迎えたんだと思う
でも、死というのは身体の中の生命としての反応や活動がすべて止まってしまうことで、そこからもう戻る術はない
命そのものを停めてしまうのはあまりに危険で何にもならなくて周囲の人に恐怖心と傷跡を残す手段だと思う
それよりも今の状態・生活・環境を先ず止めてみよう
学校もクラブも職場も今自分がいる場所ひとつだけじゃない
そのことに気がつけるだけの時間をじっくり持てたらほんの少しだけ何かが違ってくるかもしれない
みんなと同じじゃなくても大丈夫
みんなが全員で仲良くできるというのは幼稚園時代から叩き込まれてきた妄想・・・・人間には相性がある。それは大人になったって変わらない
いろんな人がいる
自分も、自分が恐れを感じている相手もその中のたった一人だ
先ず一言を自分の一番近くにいる大人の人に話せたら、自分が小さく変われる
わかってもらうために言葉を重ねたら、きっと自分の心ももう少し見えてくる
そんな風に時間の流れを変えてみるだけでもしかしたら違う何かが見えるかもしれない
・・・・そんなことを考えながら布団の中で丸まっていた数日
最近いよいよニュースを見るのがイヤになってきた
以下、明るい話題ではないので伏せます
「いじめ」と認めるとか認めないとか、言葉の表現の違いひとつのことなんじゃないのかと思う
「暴行」「恐喝」は「いじめ」じゃなくて犯罪なんじゃないのかな
「いじめ」という言葉で分類してレッテルを貼るのは何か違う気がするし危険な傾向に感じる
「いじめ」と呼ばれるものが犯罪の要素を帯びてきた時は警察という専門家に任せるべきなんじゃないかな・・・とも感じる
もしも自分の子どもに何かあった場合、「どうして教えてくれなかったのか?連絡してくれなかったのか?」は感じると思うけれど、多分、それと一緒に「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」という気持ちも感じると思う
(子どもが「いじめ」のどちらの側であっても)
学校を責める大人の姿の中に自分が先ず気づくことができなかった後悔や苦しみ、恐怖を見ようとしてしまうのはわたしだけだろうか
「いじめ」という言葉にものすごく振り回されている気がする
死を選んだ人は本当に辛くて辛くて「もうどうしようもない」と自分の中で考えながらその瞬間を迎えたんだと思う
でも、死というのは身体の中の生命としての反応や活動がすべて止まってしまうことで、そこからもう戻る術はない
命そのものを停めてしまうのはあまりに危険で何にもならなくて周囲の人に恐怖心と傷跡を残す手段だと思う
それよりも今の状態・生活・環境を先ず止めてみよう
学校もクラブも職場も今自分がいる場所ひとつだけじゃない
そのことに気がつけるだけの時間をじっくり持てたらほんの少しだけ何かが違ってくるかもしれない
みんなと同じじゃなくても大丈夫
みんなが全員で仲良くできるというのは幼稚園時代から叩き込まれてきた妄想・・・・人間には相性がある。それは大人になったって変わらない
いろんな人がいる
自分も、自分が恐れを感じている相手もその中のたった一人だ
先ず一言を自分の一番近くにいる大人の人に話せたら、自分が小さく変われる
わかってもらうために言葉を重ねたら、きっと自分の心ももう少し見えてくる
そんな風に時間の流れを変えてみるだけでもしかしたら違う何かが見えるかもしれない
・・・・そんなことを考えながら布団の中で丸まっていた数日
最近いよいよニュースを見るのがイヤになってきた
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こんばんは
ただ、どこにも言えない子供たちの気持ちはなんとなくわかる気がします。
心が麻痺してしまうから。
「言えない」と言う状態にすら気づかないから。
子供のいない私が、何を偉そうな!
と思われてしまうかもしれませんが、イジメのない学校はないのでしょう。
まずはそれを認めるところから、再生は始まる気がします。
学校も、家庭も。
いじめは難しい
私の不幸中の幸いは学校の成績は悪くなかったこと。周りの子供と違い自立した子供であったこと。隙を見せないようにして、一人でも超然としていたこと。
今のいじめは恐喝など完全な犯罪で私の時のようなぎりぎりの子供の中でこそ許される悪さを通り越してます。自殺という最終手段を取らなくてはならないほど、今の子供は追い詰められていると思います。
「お前は幼稚園児か」というようないじめは社会人でもあります。気を強く持てと励ますことは出来ても、それが子供の負担になることも予想できます。
子供に一人で超然としろというのは酷だと私は思います。逃げてもいい。捨て身の攻撃をしてもいい。(反撃は効果的です)いじめられる子に責任は無いと考えます。苦しいとは思うけど、結局は子供のやることです。いじめる側はくだらないバカをやってるのだということで、いじめを受ける側に「自分はダメなんだ」と思って欲しくない。
死にたいという思いは何度もしてきたけど、「死人に口なし」。自分の思いとは違う方向に勝手に好き勝手なコメントと方向に持って行かれるのです。逃げてもいい。転校してもいい。だけど、死んだら敵に都合のいいようにされるんだよ。悔しくない?私はそう思います。でも、死を選ぶのを逃げだとは思いません。彼・彼女にはもう選択することが出来ないほど追い詰められて他に方法が無かったのだから。
私のかなりひどい人間嫌いは子供の頃からのいじめに始まる大人と子供の身勝手にうんざりさせられたのが原因です。出来れば、いいこともあるんだよと思えることが今いじめで苦しんでいる子にありますように。