2006/01/24
やっぱり苦手な国語の勉強
国語力の低下が・・・・という記事や発言を時々目や耳にする
活字離れ、という言葉もよく聞く
実際にそうなのかな?と時々考える
昔はとにかく情報の媒体は文字+ラジオ+テレビだった
特にテレビはかなりの影響力があった
学校へ行ってもクラスの中の大半が同じ音楽番組、ドラマ、お笑いを見ていて同じラジオ番組を聴いていた
そこからはずれていた自分は休み時間などはかなり肩身が狭い思いをしていたのだけれど、その気持ちはTVの影響力の裏返しと言うかマイナスな視点で見たものだったかもしれない
でも、そんなにまわりがみんな本を読んでいたかな?
・・・人それぞれだったと思う
読みたい人は読んでいたし、本が大嫌いな人もいた
マンガでも雑誌によって〇〇派とXX派とか別れていたし、わざと違う雑誌を買って交換して読んだりしてた
マンガなんてお子様、という感じで恋愛ドラマにどっぷりのみんなもいた
今はその選択肢の中にインターネットやゲームが加わってるけれど、そこにも文字はあるわけだし、実はそんなに昔と違うってことはないんじゃないだろうか
そう思う
顔文字や携帯メールの中の???なアルファベットと記号の連続、わたし自身はちんぷんかんぷんだけど、「文字数が少なければ少ないほど料金がかからない」という条件の中で視覚的にぱっと表現する方法として面白いかなと思う
暗号みたいな楽しさもあるのかな
じゃあ、なぜ?
どうして「国語力の低下」とか「活字離れ」が話題にのぼらなくちゃいけないのだろう
文章に書かれた内容を読み取る力が不足している、というのは確かに問題だ
いや、問題と言うよりもその能力が足りないと不便だ
文章の内容を読み取る能力と人の話の内容を理解する能力
この二つは日常生活、仕事、恋愛・・・いろいろな場面で必要とされる力だと思う
自分がやらなければいけないこと、自分に向けられた気持ち、自分がやりたいことをやるために何が必要か
そういうものを理解しようと思うとどうしても言葉をしっかりつかむ必要が出てくる
「愛してる」という直接的な表現が苦手で「こんなの、いいよね」がギリギリ今の限界だ!という人がいたら(いや、いるんですけどね、実際:笑)その人の気持ちは相手に非常に伝わりにくい
でも、待てよ
「愛してる」という言葉は言葉的な意味はすぐに通じるだろうけれどその言葉に対する心の中の色彩とかそこから想像する現在や未来、五感の震え方などなどは実はものすごく個人差があるんじゃないだろうか
そっと手を繋ぐ
視線を交し合う
一緒にコタツでみかんを食べる
唇を合わせる
身体を合わせる
家庭を作る
育てる
・・・・
もっともっといろいろな場面や言葉が浮かんでいるはずだ
それは一時期よく目にした「萌え」(わたしはまだこの言葉を使うけど)の個人的ポイントの違いにも通じる気がする
・・・と、話がズレてしまった
で、やっとタイトルの「国語の勉強が苦手だ」という部分に来るのだが
「〇〇は~~~~~を見て何を感じたのか〇〇字以内で書きなさい」
「〇〇がなぜXXXXXXXXであることを喜んだのか説明しなさい」
わたしが苦手なのはこのタイプの問題
(あ、文章の中に思いっきりその理由が明記されている場合は入らない。これは無害だと思う:笑)
こういう問題を見て登場人物〇〇がその物語の中の場面・状況で心の中に何を思ったのか・・・・それを真剣に考える人はどれくらいいるのだろう
いや、考えているつもりなのだ
でも考えて答えを書くとき、あるいは選択肢の中から選ぶとき、ふと、今自分が書いた答えは登場人物の心に自分がなりきって選んだものではなく、この問題の出題者が何を答えさせようとしているのかという観点から決めた答えだなと意識する瞬間はないか?
わたしは常にそれだった
「こう答えれば、大丈夫」
・・・でも、何が大丈夫なのかといえば、それはテストや授業中に指名された場合の安全確保だけなのだ
物語には行間を読む楽しさとか想像する余地というのが絶対にある
印象派的な作品でも写実的な作品でも
そこには「何だ、これ?」という謎のまま気持ちが未消化だったりものすごい妄想だって許されるはずだ
なのになぜそこに「模範解答」が存在するんだろう
どこかで読んだけれどある受験の問題でキーワードを3つ指定して受験生がそれを使った自分なりの考えを限られた文字数の中で作文する、というものがあった
で、採点をはじめたとき、先生はひどく驚いて最後は恐ろしくなったのだと言う
まったく同じパターンの作文が延々と続いたのだというのだ
自己主張、独自性がほとんど見られない文章の連続
これは小学校1年生、或いは小学受験する幼稚園生からはじまる「模範解答」から大学・就職をめざす大人たちの「小論文対策」へと繋がる長い長い時間をかけた国語の勉強の何かが出てきたものかもしれないと思った
国語は漢字学習・言葉の意味の理解・基本的な作文以外はいろいろな作品を朗読したり個人個人が持ってきた本を読むのがメインでいいんじゃないだろうか
そこから心惹かれて更に先へ進みたくなるかもしれないし
時々先生が自分が好きな言葉や作品について熱かったり面白かったり語ってくれて
テストは、例えば
・ある機械製品の操作説明書を読んで時間内にその操作をどののくらい理解したか確認する
・リスニング(よくある英語のあれをそのまま日本語に置き換える。地方の方言も盛り込む)
・小説やエッセイ、古文や漢文を読んで感じたこと、気になった言葉、連想したことなどなどを書いてもらう
・恐怖だけどできると快感の漢字100問
・今自分の中にある一番強い気持ちを文章で表現してもらう(もちろんラブレターも可)
こんなのが組み合わさった問題だったら個人的にはとても嬉しい
ごちゃごちゃ書いてきたけれど、結局は、国語の授業は日本語は生きていくのに必要だし楽しいよって思わせてくれる内容だといい・・・これに尽きる
主人公の気持ちを模範解答に近く書けたほどに点数が高くなる、という感覚は逆に解釈の自由を奪ってるんじゃないかな
国語を勉強すればするほど、塾に行けば行くほどひとつの型にはまっていくのだとしたらそれはかなり悲しい気がする
活字離れ、という言葉もよく聞く
実際にそうなのかな?と時々考える
昔はとにかく情報の媒体は文字+ラジオ+テレビだった
特にテレビはかなりの影響力があった
学校へ行ってもクラスの中の大半が同じ音楽番組、ドラマ、お笑いを見ていて同じラジオ番組を聴いていた
そこからはずれていた自分は休み時間などはかなり肩身が狭い思いをしていたのだけれど、その気持ちはTVの影響力の裏返しと言うかマイナスな視点で見たものだったかもしれない
でも、そんなにまわりがみんな本を読んでいたかな?
・・・人それぞれだったと思う
読みたい人は読んでいたし、本が大嫌いな人もいた
マンガでも雑誌によって〇〇派とXX派とか別れていたし、わざと違う雑誌を買って交換して読んだりしてた
マンガなんてお子様、という感じで恋愛ドラマにどっぷりのみんなもいた
今はその選択肢の中にインターネットやゲームが加わってるけれど、そこにも文字はあるわけだし、実はそんなに昔と違うってことはないんじゃないだろうか
そう思う
顔文字や携帯メールの中の???なアルファベットと記号の連続、わたし自身はちんぷんかんぷんだけど、「文字数が少なければ少ないほど料金がかからない」という条件の中で視覚的にぱっと表現する方法として面白いかなと思う
暗号みたいな楽しさもあるのかな
じゃあ、なぜ?
どうして「国語力の低下」とか「活字離れ」が話題にのぼらなくちゃいけないのだろう
文章に書かれた内容を読み取る力が不足している、というのは確かに問題だ
いや、問題と言うよりもその能力が足りないと不便だ
文章の内容を読み取る能力と人の話の内容を理解する能力
この二つは日常生活、仕事、恋愛・・・いろいろな場面で必要とされる力だと思う
自分がやらなければいけないこと、自分に向けられた気持ち、自分がやりたいことをやるために何が必要か
そういうものを理解しようと思うとどうしても言葉をしっかりつかむ必要が出てくる
「愛してる」という直接的な表現が苦手で「こんなの、いいよね」がギリギリ今の限界だ!という人がいたら(いや、いるんですけどね、実際:笑)その人の気持ちは相手に非常に伝わりにくい
でも、待てよ
「愛してる」という言葉は言葉的な意味はすぐに通じるだろうけれどその言葉に対する心の中の色彩とかそこから想像する現在や未来、五感の震え方などなどは実はものすごく個人差があるんじゃないだろうか
そっと手を繋ぐ
視線を交し合う
一緒にコタツでみかんを食べる
唇を合わせる
身体を合わせる
家庭を作る
育てる
・・・・
もっともっといろいろな場面や言葉が浮かんでいるはずだ
それは一時期よく目にした「萌え」(わたしはまだこの言葉を使うけど)の個人的ポイントの違いにも通じる気がする
・・・と、話がズレてしまった
で、やっとタイトルの「国語の勉強が苦手だ」という部分に来るのだが
「〇〇は~~~~~を見て何を感じたのか〇〇字以内で書きなさい」
「〇〇がなぜXXXXXXXXであることを喜んだのか説明しなさい」
わたしが苦手なのはこのタイプの問題
(あ、文章の中に思いっきりその理由が明記されている場合は入らない。これは無害だと思う:笑)
こういう問題を見て登場人物〇〇がその物語の中の場面・状況で心の中に何を思ったのか・・・・それを真剣に考える人はどれくらいいるのだろう
いや、考えているつもりなのだ
でも考えて答えを書くとき、あるいは選択肢の中から選ぶとき、ふと、今自分が書いた答えは登場人物の心に自分がなりきって選んだものではなく、この問題の出題者が何を答えさせようとしているのかという観点から決めた答えだなと意識する瞬間はないか?
わたしは常にそれだった
「こう答えれば、大丈夫」
・・・でも、何が大丈夫なのかといえば、それはテストや授業中に指名された場合の安全確保だけなのだ
物語には行間を読む楽しさとか想像する余地というのが絶対にある
印象派的な作品でも写実的な作品でも
そこには「何だ、これ?」という謎のまま気持ちが未消化だったりものすごい妄想だって許されるはずだ
なのになぜそこに「模範解答」が存在するんだろう
どこかで読んだけれどある受験の問題でキーワードを3つ指定して受験生がそれを使った自分なりの考えを限られた文字数の中で作文する、というものがあった
で、採点をはじめたとき、先生はひどく驚いて最後は恐ろしくなったのだと言う
まったく同じパターンの作文が延々と続いたのだというのだ
自己主張、独自性がほとんど見られない文章の連続
これは小学校1年生、或いは小学受験する幼稚園生からはじまる「模範解答」から大学・就職をめざす大人たちの「小論文対策」へと繋がる長い長い時間をかけた国語の勉強の何かが出てきたものかもしれないと思った
国語は漢字学習・言葉の意味の理解・基本的な作文以外はいろいろな作品を朗読したり個人個人が持ってきた本を読むのがメインでいいんじゃないだろうか
そこから心惹かれて更に先へ進みたくなるかもしれないし
時々先生が自分が好きな言葉や作品について熱かったり面白かったり語ってくれて
テストは、例えば
・ある機械製品の操作説明書を読んで時間内にその操作をどののくらい理解したか確認する
・リスニング(よくある英語のあれをそのまま日本語に置き換える。地方の方言も盛り込む)
・小説やエッセイ、古文や漢文を読んで感じたこと、気になった言葉、連想したことなどなどを書いてもらう
・恐怖だけどできると快感の漢字100問
・今自分の中にある一番強い気持ちを文章で表現してもらう(もちろんラブレターも可)
こんなのが組み合わさった問題だったら個人的にはとても嬉しい
ごちゃごちゃ書いてきたけれど、結局は、国語の授業は日本語は生きていくのに必要だし楽しいよって思わせてくれる内容だといい・・・これに尽きる
主人公の気持ちを模範解答に近く書けたほどに点数が高くなる、という感覚は逆に解釈の自由を奪ってるんじゃないかな
国語を勉強すればするほど、塾に行けば行くほどひとつの型にはまっていくのだとしたらそれはかなり悲しい気がする
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